・・・金沢城奥向中老には、山田六郎五郎の妹「沢野」・・・・

権大宮司監物(けんもつ)正基の加賀藩とのパイプ役は、正基の親類で、六代藩主吉治(徳)御代に金沢の
長新十郎善連(よしつら)(3万3千石)の家中、山田六郎五郎妹の沢野という老女だった。金沢において
吉徳公の御広舗(おひろしき)の中老から老女となり、延享元年(1744)に病死した。

・・・山田家は、長家の親戚筋・・・・

山田家は、長家の親戚筋に当たる。12世紀後半に、鎌倉幕府御家人(ごけにん)長谷部(はせべ)(長)信連(のぶつら)の六男は、大屋庄山田(能登半島鳳至郡(ふげしぐん)山田村)の地頭職となり、山田氏を名乗った。奥能登
内浦(富山湾)に流れる山田川流域が山田氏の本拠地であった。山田氏は中世の大屋庄山田郷(能都町
西部から穴水町北東部)の地頭職であった。山田川中流域の丘陵部(能都町瑞穂)には、室町後期の山田
秀次の城砦跡が残る。山田氏は、本家の長家の重臣5家として本家を支えた。羽咋神社の別当寺だった
本念寺には、永禄9年(1566)2月27日鋳造の穴水青竜寺鐘銘に、山田六郎五郎の名が残されている。

・・・長家家老山田六郎五郎の後家に・・・権大宮司櫻井正基の姉妹・・・・

長谷部(長)信連(のぶつら)の惣領家を継ぐ長新十郎善連(よしつら)は、享保14年(1729)に生まれた。
しかし享保20年(1735)、父の高連(たかつら)
が死去したため、わずか7歳で、遺領3万3千石を相続した。しかし善連(よしつら)幼少につき、後見人は、前田対馬守(1万8千石)と前田図書(7千石)がたてら
れた。この幼君を擁し、実質的に家中をまとめたのは、家老の山田六郎五郎だった。(長家家譜第六巻)
能登一宮大宮司櫻井監物(けんもつ)(せい)太夫(だゆう)の伯母は、長新十郎善連(よしつら)の家老山田六郎五郎の
後妻となった。

・・・加賀藩邸奥向年寄に「櫻井」が登る・・・・

山田六郎五郎が病死したため、櫻井監物(けんもつ)(せい)太夫(だゆう)の伯母は、庵を構えて菩提を弔っていた。だが、延享3年(1746)3月下旬、前田宗辰(むねとき)の本郷上屋敷年寄(江戸屋敷奥向きを統括する最上職の女性)に召しだされて、4文字名の櫻井を名乗るようになる。この櫻井なる女性が、突然に要職である江戸加賀藩邸の奥屋敷年寄職に登るとは考えられない。通常は、中老などを勤めた上で、奥のしきたり・法度・慣例・願い事・秘密保持などに精通した上で昇格していた。年寄櫻井は、おそらくは、山田六郎五郎の後妻になる前に、加賀藩邸の中老クラスの奥御殿奉公を経験していたのであろう。このように、中年になるまで奥女中を勤めるうちに婚期を逃した場合は、御殿下りと言って、しかるべき後家に入った例は多い。最高位の年寄に上がるのには、奉公経験だけでは難しく、それなりの出自の家格が必要であった。気多(けた)神社大宮司家は、八家並みの従五位下に叙せられ高家筆頭の家格にあったので、櫻井大宮司家の娘は、加賀藩奥向の最高位年寄にのぼるだけの資格を具備していたのだろう。年寄櫻井は、江戸藩邸で奥向奉公をしていたのだろうが、長家家老の山田六郎五郎の後妻に入った。山田六郎五郎の妹沢野は、監物(けんもつ)正基の親類にあたり、吉徳時代の金沢城二の丸御広舗で奥向中老の職にあった。基延文書には、沢野を老女とも書かれているので、中老から最高位の年寄にまで昇格したのではないだろうか。

主家の長新十郎善連(よしつら)は、まだ10代半ばであり、幼き妻は加賀八家筆頭の本多安房守の娘であった。山田六郎五郎は、長家のお守役兼家老職の重責を担っていた。長家家老の妻が欠けていては、何かと不便なので、奥向き経験に長じた権大宮司監物(せい)太夫(だゆう)の伯母に後妻の白羽の矢が立ったのだろう。しかし、ほどなく山田六郎五郎は亡くなり、伯母は菩提を弔っていた。そこに江戸藩邸から急遽呼び出されて、奥向の年寄に返り咲き旧姓の櫻井を名乗ることになった。

・・・権大宮司家は、加賀藩中心部と強いパイプを持つ・・・・

延享2年(1745)11月晦日(みそか)には、輿入れ後わずか1年半で、藩主宗辰(むねとき)の夫人常子が逝去した。加賀藩江戸屋敷は、前藩主の死去に続き、現正室が相ついで亡くなる緊急事態となった。奥方の逝去により、奥向御用の年寄・中老など高級女中は、閑を取り実家に戻るか、剃髪して隠居したので、約三分の一を残して入れ替えとなったからである。江戸藩邸の奥向高級女中は、大幅な欠員が生じた。
 常子の喪も明けた延享3年(1746)3月、後家となっていた権大宮司櫻井監物(けんもつ)の娘は、江戸屋敷奥向最高位の年寄に指名された。金沢をたち、春なお浅い北陸街道から信濃路を抜けて急ぎ上京した。
 加賀藩八家筆頭の本多安房守が後見人の名門長家で家老職を勤める山田六郎五郎の後妻、能登一宮大宮司家の出身櫻井女史は、加賀藩邸奥向取締に就任するに十分な経験と資格を具備していた。それにもまして重要な点は、新藩主宗辰(むねとき)の生母浄珠院(じょうじゅいん)の意向だろう。浄珠院(じょうじゅいん)は、昔の同僚で気心のかよう櫻井女史を奥向取締に起用したのであろうと推測される。
 このように年寄櫻井の延享3年(1746)3月下旬の上京は、前年末に逝去した7代藩主宗辰(むねとき)正室の奥向年寄の辞去にともなう緊急補充だった。

5.加賀藩邸 奥向

桜井基延文書には、権大宮司櫻井基明の娘で本郷上屋敷年寄となる「櫻井」のほかに、権大宮司家の取成人となった2人の奥向きに奉公した女性を記している。加賀藩の藩士は、加賀藩侍帳などで確認できるが、女性の奉公人については、奥向の勤務や出来事など一切口外しない誓紙を交わし奉公したことや、世襲ではなく一代限りのお勤めということもあって、氏名・履歴などの公式記録が残されていない。

・・・御広式(おひろしき)女中とは?・・・・

櫻井基延文書には、奥向を「御広舗(おひろしき)」と記している。この言葉使いに関して、松雲公(前田綱紀公)夜話で次のように使い方をいましめていた。「御奥向女中のことを御広式(おひろしき)女中と近習頭どもは言っているようだ。表向きの者はなおさらそのように御広式女中と心得ることだろう。御広式というのは、御鎖口(お鈴廊下)より外の意味である。このように心得違いをしていては、何かと忙しい時には、御広式にまかりこすよう命じると、内証(お出入り禁止の奥屋敷)に入りこむこともありうるだろう。不都合なので混同するなと度々御意を述べられた。」

・・・本郷上屋敷の奥向空間・・・・

本郷上屋敷は、金沢城の4万坪をはるかに越える8万8千坪の大邸宅で、奥向きの女中だけでも3百人は働いていた。最高位の御年寄(おとしより)4名でこの女中を取り締まっていた。加賀藩の奥向は、綱紀のしつけも厳しく質素倹約をむねとし、竹刀稽古や薙刀、馬術の稽古が盛んであった。
江戸一と称された庭園を囲むように、江戸詰めの藩士が暮らす詰人空間(細長い長屋群)が取り巻き、最盛時に2千人から3千人の藩士が暮らしていた。
御殿空間と詰人空間は、エリア分けがはっきりしていた。御殿空間は、現在の東大赤門の正面に表御殿の御本殿が建ち、その奥に奥御殿と長局(ながつぼね)の殿舎がつながっていた。赤門の前の本郷通は、旧中山道で、加賀藩の参勤交代道であった。
本郷上屋敷は、深山幽谷の風情を思わせる心字池(現在の東京大学校内、三四郎の池)を中心に、敷地の約半分を占める育徳園と呼ばれる泉池回遊式庭園と馬場が配置されていた。池の周辺には、カラカサ御亭などの(あずまや)が配置されていた。(あずまや)の近くには氷室(ひむろ)もおかれていたので、真夏まで保存しておいた氷で、涼を楽しんでいたのではないだろうか。
殿の馬場跡は、御殿下グラウンドである。現在の東大構内には、幽谷の風情をのこす心字池を囲んで昔をしのぶ和風造りの弓道場、柔・剣道場などが建つ。女子大生が袴姿で稽古を行う姿を見ると、思わず時空間のへだたりを忘れる光景である。
本郷上屋敷の御殿空間は、表御殿のご本殿と、御広敷(おひろしき)、奥向の御殿(ごてん)長局(ながつぼね)の3つからなっていた。御広敷(おひろしき)は、奥向の事務を行う男の役人も詰めていた表の場所であった。奥御殿は、奥方の住む御殿で夫人の居間、御対面所、藩主の寝所、仏間、化粧の間などがある。さらに付随して庭園や馬場が御殿空間を形成していた。


長局(ながつぼね)は、1の側、2の側、3の側と幾棟にも二階建ての長屋が連なり、長廊下(出仕廊下)で奥御殿に繋がっていた。1の側の(つぼね)は、表局(おもてつぼね)といって御年寄(おとしより)中老(ちゅうろう)御側(おそば)表使(おもてつかい)などの高級女中が住み、2の側以下の裏局(うらつぼね)には、祐筆(ゆうひつ)御次(おつぎ)第三の間(おさんのま)など下級女中が住んでいた。さらに、掃除、洗濯、炊事などの雑用は、お目見え以下の御仲居(おなかい)御使番(おつかばん)御末(おすえ)、お犬子供などが行う。部屋方には、雑用一般の奥小僧が控えていた。加賀藩でも最盛期には3百人に登る坊主が、表坊主、奥坊主、御部屋坊主、御数寄屋(おすきや)坊主などの名目で働いていた。

しかし、将軍吉宗による享保の改革(1720年代)により、これらの大名家の坊主どもは廃止され、加賀藩でも奥向に数人の御居間(おいま)坊主だけを残して減らしてしまった。後に加賀騒動の主犯格となる大槻伝蔵が吉徳の御居間坊主に上がるのは、この頃である。

・・・奥の年寄は、国家老に匹敵・・・・

奥の高級女中は、表向のお側役、お小姓の役割であり、奥向御年寄(おとしより)の権威は、表の国家老に匹敵する役職であった。藩の政務を行う表御殿と奥方の住む奥御殿は、お鈴廊下でつながっている。廊下の両側に扉が設けられ、平常は閉められて施錠されていた。奥御殿側には、御錠番口という奥女中が詰め、表御殿側には、男の御小姓が監視していた。殿様が通る場合は、両方から連絡用の綱を引いて鈴を鳴らす。奥向からは、御年寄(おとしより)と表使がお迎えする。廊下の半ばで、殿様と拝刀など受け渡しを行う。拝刀の受け渡しは、袱紗(ふくさ)を用いて表の男性の御小姓から奥の女性の表使に渡されるが、その際に両者が間違って手でも触れると数日間の謹慎処分を受けたそうだ。

・・・金沢城二の丸御殿・・・・

金沢城の御主殿、奥向は、二ノ丸御殿にあった。文化期(1800頃)の延建坪は、3,225坪であった。ここでは表玄関から式台、大広間、松の間、黒書院、能舞台などの表御殿に付随し、藩主の生母や部屋方が住む奥向を御広式と称していた。表御殿と御広式の中間には、藩主が日常生活を過ごす御居間、御寝所、御風呂屋など御居間廻と呼ばれる空間に能舞台も設えられ、中奥を形成していた。御広式で働く御殿女中が暮らす部屋方は、段橋を介して一段低い数奇屋丸に設けられていた。奥向御用の炭・薪・御膳食料など日常品は、裏口御門から御広式入口御門を経て搬入された。
 このように御広式の呼称は、江戸城大奥に遠慮して付けられた大名家の奥向屋敷を総称する言葉として、一般的に使用されていた。加賀藩でも本郷上屋敷の御広式は中奥を示し、表と奥の中間に置かれた。しかし金沢城では、奥向御殿全般を示していた。

・・・権大宮司家の3名の女性・・・・

 基延文書よる大宮司家関係の奥向き女中は、次の3名である。

(1)安藝(あき)御前様のお(つぼね) (権大宮司大監物櫻井基明の妻の姉)

(2)吉徳の時代の金沢城奥向中老「沢野」

(3)江戸加賀藩邸奥向年寄「櫻井」

・・・安藝(あき)御前様のお(つぼね)・・・・権大宮司大監物(けんもつ)櫻井基明妻の姉・・・

この(つぼね)は、権大宮司大監物(けんもつ)櫻井基明妻の姉である。安藝(あき)さまの御前様のお局に奉公していたので、本郷上屋敷の御広舗(おひろしき)にもお使いをしていた。権大宮司故監物(けんもつ)治部孝基の叔母に当たる。(けんもつ)治部孝基の代にも、このお局様がご存命だったが、その後病死した。大名家では、お殿様を御前と呼び、奥方は御前様と様付きで呼ばれている。安藝(あき)御前様とは、芸州藩主浅野吉長室で、五代藩主前田綱紀(つなのり)3女節姫である。櫻田御前様とも呼ばれ、安藝(あき)藩内では加賀御前様と呼ばれていた。六代藩主前田吉徳の姉にあたる。元禄12年11月21日に、19歳で浅野吉長に入興した。吉長より1歳年上であった。父綱紀の臨終の際には、安藝(あき)御前様が立ち会われている。
 享保15年(1730)、父の綱紀七回忌が行われた。同年9月29日、節姫は51歳で逝去した(法名、源光院正台恵覚大姉)。弟の吉徳は、同月10日に参勤交代で加賀から着いたばかりで、15日には臨時の朝会に登営した。節姫の病状は29日の払暁から重くなった。知らせを受けた吉徳は、朝方6時30分に供を呼び、遠田勘右衛門を先乗りに普段着のまま霞ヶ関の安芸藩邸まで早馬で駆けつけたが、同日節姫は亡くなった。
 権大宮司大監物(けんもつ)櫻井基明妻の姉は、この節姫附きの(つぼね)となった。基明妻の姉の名前は不詳であるが、加賀藩の主家に属したままで、浅野家に節姫お付き局で派遣された一人であった。節姫が生んだ岩松君は、安藝(あき)藩七代目藩主伊勢守宗恒(むねつね)となる。節姫死去から6年後、浅野宗恒(むねつね)には、前田吉徳(よしのり)の一女、喜代子姫が嫁いでいる。

大宮司ご先祖の足跡を訪ねて (5) 本念寺 2006/11/4〜6
羽咋神社前の本念寺(鐘銘に山田六郎五郎の名前が刻まれている)

・・・真如院(しんにょいん)による毒殺疑惑が・・・・

しかし、櫻井女史が加賀藩奥向の要職に就任したこの年の12月8日に七代藩主宗辰(むねとき)も夫人を追うように22歳の若さで夭逝した。そして浄珠院(じょうじゅいん)が調査した結果、真如院(しんにょいん)による毒殺疑惑が発覚したのである。
 そこで延享4年(1747)1月26日に、重煕(しげひろ)が19歳で8代藩主を相続した。重煕(しげひろ)の生母お民の方(心鏡院)は、19歳で亡くなっていたので、重煕(しげひろ)養育を担っていた浄珠院(じょうじゅいん)が引き続き、奥向の実権を握ることになった。従って、浄珠院(じょうじゅいん)に頼りにされた老女櫻井は、そのまま年寄奉公を続けたのではないだろうか。